メニュー

代表 長谷川のブログ

ヒンドゥー教の聖典 バーガヴァタ・プラーナ 第八巻 第十九話 より


duler

足ることを知った者は、偶然に得たものだけで、心安らかに生きていくのです。

けれども、心を制御できずに不満をいだく者は、全世界をわがものとしようと、幸福な人生を送ることはできないでしょう。

 富や感覚器官の楽しみへの不満は負の連鎖へつながり、偶然に手にしたものに満足することは、魂の解放へとつながると宣言されています。
 

偶然に得たもので満足する、そんな心清き者が持つ栄光は、まことに眩しく光り輝き、不満によっては、それは水に消える火のように、消滅してしまうでしょう。 

富というものは、その人が必要とする程度にのみ、望むべきものなのです。 

(ヒンドゥー教の聖典 バーガヴァタ・プラーナ 第八巻 第十九話 より)

 

仏教の言葉に求不得苦(ぐふとくく)というものがあります。

これは求めても得ることができない苦しみを意味しており、人生の苦しみの大半を占めている性質のものであると言えるでしょう。

 この〝求めても得ることのできない苦しみ〟は、誰の人生にも必ずついて回る代物です。よってわたしは、求不得苦が人生には付き物であるがゆえに、過剰な欲望は苦しみしか生まないという結論に達するのです。

 

自分の利益だけを追求することは、最終的には孤立を、孤独を生み出します。

 

孤独は絶望の母である、とわたしは思います。

 

たとえ思い通りの結果を手にしたとしても、どんなに富を得たとしても、それをよろこび合う相手がいなくては何にもなりません。

 

この聖典の一節を読むと、この物質的なものだけを過剰に追及している社会に疑問を持ってしまう自分がいます。

 

わたしは葬儀屋なので、死後には何も物質的なものを持っていくことができないことをよく知っています。

「どうせ持っていくことができないものに、過剰に執着する必要はないのでは?」

 

と、つい思ってしまいます。

 

ある国では貧困が吹き荒れ、餓死者さえ出ているというのに、ある国では市場価格を維持するためだけに、大量の食糧を意図的に廃棄処分しています。

 

いつまでもこんなことを続けていては、いずれ大きな災害が起こったとき、全世界規模の食糧難や戦争になってしまうこともあり得るでしょう。

 

・・・これからの時代、『わたしのもの』という利己的な価値観だけでは人類は滅びてしまうかもしれません。

 

いまこそ『わたし』『わたしのもの』という段階を超えて、もっと高い意識の段階、『わたしたち』『わたしたちのもの』と思う段階に進むべきではないのでしょうか。我欲から我欲を捨てた心へ、とらわれから解放へと、すこしずつ進んでいくのです。

 

「貧困をつくるのは神ではなく、わたしたち人間です。わたしたちが分かち合わないからです」

 

わたしの敬愛するマザー・テレサの言葉です。

 

わたしはいつかこの世界が、差別や貧困のない、こころから皆でわらいあえるものになることを願わずにはいられません。

 

合 掌

館山市・南房総市・鋸南町の葬儀会社「三和仏商(サンワコーポレーション)」

テーマ:
電話番号
0120-22-0163
受付時間
24時間受け付けております