メニュー

代表 長谷川のブログ

カルマの夢

ヴァ―スデーヴァ①

スタッフと『カルマ』について話をしました。

 

ウチの中ではこの言葉は割とありふれたものなのですが、彼に「『カルマ』とは何か?」とあらためて聞いてみたところ、運命と同義に近い意味でしか考えていなかったことがわかりました。

 

・・・一般的には、確かにそのように思うかもしれません。

 

彼に話したことの確認として、以下に『カルマ』の概要を記します。

 

******************************

『カルマ』・・・サンスクリット語で『行為』を意味するが、聖典によれば、カルマとは人の心に潜在化して蓄積された過去の行為印象を指す。それらのいくつかは非常な力を持っており、今の人生で自然と現象化されて、その者を動かしてゆく。

 

この強力な類のカルマはプラーラブダ〔すでに始まったもの〕と呼ばれる。

それ以外の大多数のものは、それよりも比較的力が弱く、その人がある一定の状況=俗にいう『悟り』に至るや自然と消えていく。しかしプラーラブダはそうはいかずに、肉体が滅びるまで存続しつづけるとされる。それゆえ、真のカルマからの解放は死後にしかないといえる。

 

悟りを得た後になされる行為はアーガーミ〔現れつつあるもの〕と呼ばれるが、これらはもはやその者を束縛することがない。

******************************

 

・・・つまり、『カルマ』とは自身の行為及び経験によって心に刻み付けられた印象の残滓(ざんし=固定観念や固有の価値観という幻)であり、その残滓が自分自身の感情の動きや考え方に、無意識に影響を及ぼしているということになるのです。

 

このことを突き詰めていくと、以下のような疑問が浮かび上がってきます。

 

「わたしの思いは、わたしの心は、ほんとうにわたしの本質なのだろうか?」

 

「この考えは、この行為は、過去の自分の行為の結果や経験による反射・反動・反映に過ぎないのではないだろうか?」

 

「わたしはほんとうに〝真実〟を観ているのだろうか?」

(わたしのポリシーのひとつは『根拠なく疑ってよいのは自分自身だけである』です)

 

・・・もしかしたら、わたしたちは覚醒しているときにも『カルマによる夢』を見続けているのかもしれない、そんなふうに考えてしまう自分がいます。

 

とりとめのないお話になってしまいましたが、最後にカルマについて考察していくとたどり着く結論を書いて終わりたいと思います。

 

「実に人間というものは、かならず行為の結果を刈り取らなくてはならない定めにある生き物である」

 合 掌

館山市・南房総市・鋸南町の葬儀会社「三和仏商(サンワコーポレーション)」

テーマ:

ヒンドゥー教の聖典 バーガヴァタ・プラーナ 第八巻 第十九話 より

duler

足ることを知った者は、偶然に得たものだけで、心安らかに生きていくのです。

けれども、心を制御できずに不満をいだく者は、全世界をわがものとしようと、幸福な人生を送ることはできないでしょう。

 富や感覚器官の楽しみへの不満は負の連鎖へつながり、偶然に手にしたものに満足することは、魂の解放へとつながると宣言されています。
 

偶然に得たもので満足する、そんな心清き者が持つ栄光は、まことに眩しく光り輝き、不満によっては、それは水に消える火のように、消滅してしまうでしょう。 

富というものは、その人が必要とする程度にのみ、望むべきものなのです。 

(ヒンドゥー教の聖典 バーガヴァタ・プラーナ 第八巻 第十九話 より)

 

仏教の言葉に求不得苦(ぐふとくく)というものがあります。

これは求めても得ることができない苦しみを意味しており、人生の苦しみの大半を占めている性質のものであると言えるでしょう。

 この〝求めても得ることのできない苦しみ〟は、誰の人生にも必ずついて回る代物です。よってわたしは、求不得苦が人生には付き物であるがゆえに、過剰な欲望は苦しみしか生まないという結論に達するのです。

 

自分の利益だけを追求することは、最終的には孤立を、孤独を生み出します。

 

孤独は絶望の母である、とわたしは思います。

 

たとえ思い通りの結果を手にしたとしても、どんなに富を得たとしても、それをよろこび合う相手がいなくては何にもなりません。

 

この聖典の一節を読むと、この物質的なものだけを過剰に追及している社会に疑問を持ってしまう自分がいます。

 

わたしは葬儀屋なので、死後には何も物質的なものを持っていくことができないことをよく知っています。

「どうせ持っていくことができないものに、過剰に執着する必要はないのでは?」

 

と、つい思ってしまいます。

 

ある国では貧困が吹き荒れ、餓死者さえ出ているというのに、ある国では市場価格を維持するためだけに、大量の食糧を意図的に廃棄処分しています。

 

いつまでもこんなことを続けていては、いずれ大きな災害が起こったとき、全世界規模の食糧難や戦争になってしまうこともあり得るでしょう。

 

・・・これからの時代、『わたしのもの』という利己的な価値観だけでは人類は滅びてしまうかもしれません。

 

いまこそ『わたし』『わたしのもの』という段階を超えて、もっと高い意識の段階、『わたしたち』『わたしたちのもの』と思う段階に進むべきではないのでしょうか。我欲から我欲を捨てた心へ、とらわれから解放へと、すこしずつ進んでいくのです。

 

「貧困をつくるのは神ではなく、わたしたち人間です。わたしたちが分かち合わないからです」

 

わたしの敬愛するマザー・テレサの言葉です。

 

わたしはいつかこの世界が、差別や貧困のない、こころから皆でわらいあえるものになることを願わずにはいられません。

 

合 掌

館山市・南房総市・鋸南町の葬儀会社「三和仏商(サンワコーポレーション)」

テーマ:

新約聖書 『ルカによる福音書』より

磔刑 キリスト

そして人々がゴルゴダ〔髑髏〕と呼ばれている場所にやって来たとき、そこでイエスと犯罪者たちとを十字架につけた。一人を〔彼の〕右に、もう一人を〔彼の〕左に〔十字架につけた〕。

 

するとイエスは言うのであった、

 

「父〔神〕よ、彼らをゆるしてください。彼らは自分が何をしているか、わかっていないのです」。

 

〔新約聖書 『ルカによる福音書』より〕

 

 

・・・なぜ人をゆるすことが大切なのか深く考えさせられる一節です。

わたし自身の過去を振り返ってみれば、自分が愚かな行為をしていたとき、〝愚かな行為をしているという自覚〟はまったくありませんでした。後になって愚かなことをしてしまったとわかっただけです。

 

そもそも愚かな行為であるとわかっていて実行する人はそうそういないわけであって、自覚がないからやってしまうのが大半であると思います。

 

『これをやったらどうなるのか』

 

『この行為(原因)はどんな結果を招くだろうか』

 

言動・行動の前に因果の行末をよく考えれば、おのずと愚かな行為をしてしまうことも減るでしょう。

 

昔のわたしにはこの感覚がありませんでした。

 

わたしに害をなした人の多くもそうであったように思えます。

 

・・・そしてわたしも自覚なく人を傷つけたことが多々あると思います。

 

そうであるならば、やはり〝自分が何をしているか自覚がない人〟のことはあわれみ、同情して、可能であれば真実を話して改善の機会を得ることができるよう取り計らうことが必要なのではないでしょうか。

 

今までわたしに自覚なく害をなしてきた人たちをゆるそう、そしてわたしも今後は自覚なく人を傷つけぬように言動・行動の前には因果の行末をよく考えようと、あらためて決意した今日この頃でした。

 

合 掌

館山市・南房総市・鋸南町の葬儀会社「三和仏商(サンワコーポレーション)」

テーマ:
10 / 11« 先頭...7891011